開演前:『アナウンス』
【アナウンス】 ご来場のみなさまに申し上げます。 本日は紹介劇『ゲーテ』ストーリー劇場公演にご来場いただき、まことにありがとうございます。 開演に先立ち、みなさまにご案内申し上げます。 本公演の主人公、 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、 1749年〜1832年までを生きたドイツの詩人、劇作家、小説家、また科学者でもありました。 汎神論的自然性の豊かさと近代市民の生気とを総合して普遍的人間精神へと高めたドイツ近代詩の父ともいわれる世界文学の巨匠です。作品は、 小説『若きウェルテルの悩み』 『ヴィルヘルム・マイスター』 詩集『西東詩集』 叙事詩『ヘルマンとドロテーア』 詩劇『ファウスト』 など。他にも幅広い分野で重要な作品を残しました。 それでは間もなく開演となります。 ご着席になり、しばらくお待ちください。
サー:もうすぐはじまるね。 ウー:うん、アタシ感動しちゃった。ゲーテのおはなし。とってもよかったわ!! サー:ウ、ウーノさん。。。まだ幕も開いていないのに何言ってんすか!? ウー:違うわよ〜。これは映画の『ゲーテの恋 〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」』を見た感想よ。あのね、聞いて。この物語は情熱的でロマンチストだった若き日のゲーテがね。。。 〜5分後〜 観客:ザワザワザワ…… サー:。。。あ、あのさぁウーノ。。。なんか周りのお客さん、はじまる前からネタバレされてるせいでこっち見て騒ぎはじめてる気がするんだけど。。。 ウー:でね、その『若きウェルテルの悩み』という作品をきっかけにねってあれ? いつからこんな。。。こ、これってさっきから?
【アナウンス】 ピンポーン。 その通りです。 そこの二人、もう少しお静かに。
双子:・・・・・・・・・・・・ サー:ボクまで含まれているよ。。。 ウー:い、いや〜、いつも喋ってばっかりだからいざ観客の立場になるとこう。。。 サー:も、もう少しボリュームを抑えて喋ろうか。。。あ、そろそろはじまりそうだよ。
【アナウンス】 お待たせしました。 第1部は『ゲーテの人生』 途中休憩をはさみ、 第2部は『ゲーテの作品』の順に進行して終演とさせていただきます。 それではみなさま、 紹介劇『ゲーテ』 どうぞごゆっくりお楽しみください。
【開演前ベル】 ting-ting-ting-ting-ting... ting-ting-ting-ting-ting... ting-ting-ting-ting-ting...
第1部:『ゲーテの人生 〜書いて恋して働く巨人』
ナビ:ときは1749年。ドイツのフランクフルト・アム・マイン。この地に未来の文豪となるひとりの詩人が誕生しました。 (日本では江戸時代にあたる)
ナビ:彼の名はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。 観客:パチパチパチパチ!(拍手 ナビ:裕福な家庭に生まれたゲーテは小さな頃から教育熱心な父親の手によって育てられました。 幼少時代から聡明だったゲーテは絵画や乗馬、ダンスやピアノといった初等教育を次々に学んでいきました。 その中でも特に語学の習得に秀で、少年時代のゲーテは読書を好み、10歳になる前にすでに詩作はじめていたといわれています。
ウー:あのさ、語学の習得に秀でていたって言うけど、実際どれくらい覚えたのかな。英語とか? サー:それからフランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語も身に付けていたんだってさ。 ウー:。。。す、すごっ! ちなみにタケルは何語と何語が使えるのかしら? サー:ん〜と「Only Japanese(日本語のみ)」だってさ。 ウー:ここにこう、偉大になる詩人とそうでない詩人との差があるのかしら。。。
16歳の頃、ゲーテはフランクフルトを離れ、ライプツィヒの大学で法律を学びはじめます。この時期のゲーテは恋の力(葡萄酒屋の娘、アンナ・カタリーナに対する)を原動力に詩作にも活発で、幼少期からこの時期にかけての原経験がその後の作品にも大きな影響を及ぼしています。 『恋』。それこそがゲーテにとって詩を書くためのいちばん大切な材料であるかのように、ゲーテはこの先も数々の女性と関わり、さまざまなかたちの恋を繰り広げていきました。 恋する詩人。 それが詩人ゲーテの本質なのかもしれません。
ライプツィヒでの大学生活は肺の病により3年で幕を閉じ、その後は故郷でしばらく療養生活に専念。 回復後の1770年4月、ゲーテはストラスブールの大学に入学しました。 この時期から数多くの出会いがゲーテにもたらされました。その中でも特に大きかったのはヘルダーという文学者と知り合ったことです。 ヘルダーは理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もありました。 まだ無名だったゲーテはヘルダーから文学や建築などについてのさまざまな知識を授けられ、作家・詩人としての下地を作っていきました。 こうしてゲーテの心に文学が開花していきます。
またその頃、彼は日曜日などに郊外のゼーセンハイムに牧師のブリオン家を訪れ、姉妹フリデリーケと親しくなりました。 その愛情の中で、いくつかの詩が生まれました。 この頃の詩をひとまとめにして「ゼーセンハイムの抒情詩」と呼び、中でも「野ばら」は名高い一篇です。 こうして学生時代を過ごしたゲーテは22歳の頃に法律家の資格を取得。その後は法務の実習のため、ヴェッツラーにある当時の最高裁判所へと行くことになるのでした。
観客:パチパチパチパチ(拍手 サー:ゲーテのキャッチフレーズにもなっているシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の由来ってヘルダーさんだったんだ。 ウー:なんかカッコいいわね、こういうのって。サガ(歴史的な系譜や系図)のような歴史の重みと深みが感じられる話だわ。 サー:理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すのが目的の新たな文学の追求。なんかこう、熱い青春とかロマンがあるよね! ウー:そうねぇ、情熱的でロマンチストなゲーテにとってはそういう表現方法の方が水に合っていたってことは確かだったのかも。 サー:それにしてもゲーテは家族や才能、学歴や経済状況に恵まれていたのがよく伝わってくる。 ウー:えぇ。でもそれ以上にね、ゲーテは自分から豊かな友情や恋愛に発展するような“出会い”を求められたことがいちばんスゴいなって思うわ。
どんなに恵まれた環境にいたとしても、胸がときめくような誰かや何かに出会わないと人間ってただの石っころっていうか。宝石に例えたら原石のままじゃない? 確かにゲーテは詩人の中ではあらゆる意味で恵まれていたかもしれないけれど、ゲーテの本当の良さっていうのは疾風怒濤の勢いで人と関わろうとした人間性や社交性にあるんじゃないかなってアタシは思う。 その中でぶつかりながら自分を磨いていったり、輝いていく何かがいっぱいあったんじゃないかしら。
なるほどね。ゲーテの作品を見てみるとその人柄の良さや素直さ、自然や感情に対する洞察力の深さやおおらかさが溢れているもん。 文学者や芸術家の人生や歴史を知ると何が良いかといったら、その人のことをより知ることで作品がより面白く見えたり楽しく感じられることにある。 特に詩人は純粋で自分に正直な人が多いから、その気持ちが言葉に反映されやすいんだ。 だから「なんでこの人はこんなことを書いたんだろう?」っていう謎や疑問、むつかしさのようなものが心の中で解けていく助けになるのがいちばん大きいとボクは思う。
そうそう。それでさ、そういう物事の見方って今を生きる人が誰かや何かを見たり、関わるときにも役に立つのよね。 詩人の人生を知って詩を感じることができる。それってもう作品だけじゃなくってこの世の中のあらゆるモノゴトに対する洞察力を深められる自分がいるってことなの。 だからきっと色んなモノゴトの見方ができるってことは、いつか誰かや何かにとって、自分にとっての大きな味方になってくれると思うわ。
その後、法律家への進路を取りながらも文学活動を行っていたかのようにみえたゲーテですが、その心は文学に傾いていました。 1772年、ゲーテ23歳。 五月中旬、父の希望に従い、法律実習のためヴェッツラーに移り帝国高等法院に登録、試補となります。 このときゲーテは運命的な恋に落ちます。 その相手は舞踏会で出会った女性、シャルロッテ・ブッフ(愛称ロッテ)。 それと同時に彼女の婚約者ケストナーとも親しい仲になってしまいます。 ロッテに対する熱烈な恋心は婚約者の存在によりゲーテの心を大いに苦しみめました。 「太陽も月も星も以前としてその運行をつづけているのに、ぼくにはもう昼もなければ夜もないのだ。全世界がぼくのまわりから消えうせてしまった」 ゲーテはロッテに何度も手紙や詩を送りましたが想いは届かず、9月11日の夜、ゲーテはついに訣別の手紙を残してひとりヴェッツラーを立ち去るのでした。
心の痛手を美しい自然にいやしながら、ゲーテはフランクフルトに戻り再び弁護士になりました。しかし、ロッテのことを忘れられなかったゲーテは自殺すら考えるほどの苦しい日々を送ることになります。 そして10月29日、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報がゲーテの元に届きます。原因は人妻との失恋。これに激しい衝撃を受けたゲーテはやがてこの事件とロッテとの体験とを結びつけ、小説創作を意図し、ヴェッツラーにおもむいて事件の詳細を調査することになります。 こうして誕生した作品こそがゲーテの出世作――
双子:『若きウェルテルの悩み』!
。。。です(舌打ち) 恋に悩んだ青年がついに自殺してしまうという内容のこの小説は非常に受け入れられ、当時のヨーロッパ中にブームを巻き起こしました。
観客:Yeahhhhhhhh!! サー:どれくらいのブームだったかっていうと、小説に影響を受けた若者の間で「自殺」が流行するくらいすごかったんだって。 観客:Boooooooooo!! ウー:そこまで感化されちゃぁマズいでしょ。今もそうだけど流行って恐ろしいわ! サー:うん。でも本当に恐ろしいのはゲーテの力。苦しい経験を乗り越えてその気持ちを作品に昇華させた不屈の魂こそが偉大なんだ。 ウー:“作品の影に経験あり”なのね。。。
1774年、ゲーテ25歳。 『若きウェルテルの悩み』を出版後、ゲーテが以前から尊敬していた当代第一流の詩人クロプシュトックが訪ねてきます。 続いてザクセン・ワイマール公国(当時のドイツにはワイマール公国という国があった)の公子カール・アウグストの一行が、パリ遊学の途中ゲーテを訪問。これが1年後のゲーテの運命に大きな転機をもたらす出会いとなりました。 そして1年後の1775年、ゲーテはアウグスト公に招かれ、その後永住することになるワイマールに移りました。公国でのゲーテはアウグスト公から信頼され、政治家として働くことになります。 このときゲーテは数多くの宮廷人たちとの交際をはじめていきます。それに比例するかのように文学的な活動も盛んに行われました。また、この後に科学的な分野の探求も切り開くことになっていきます。 当時のワイマールは人口約6000人の小都市で、町自体にも宮廷の事情にも、特別ゲーテをひきつけるものはありませんでした。けれども聡明なアウグスト公の人柄と、ゲーテに対する誠実な友情とが、詩人の心に新しい郷土をワイマールの地に根付かせていくのでした。
恋も仕事も友情も絶好調の時期ね。 仕事が生活に安定をもたらし、恋が詩作のインスピレーションとなり、愛がその地や自然にたいする描写を深めていく。 これが一般人だったら普通の人生かもしれないけれど、詩人の中ではむしろ珍しいくらいしっかりしているタイプよね。 最強の役人詩人って感じ。ひょっとしたら今の日本の役人さんもこういうタイプが増えるといいのかもしれないわ。
ナビ:そしてこの時期、ゲーテの人生に大きな影響を与えた新たな恋がはじまります。相手は7歳年上のフォン・シュタイン夫人。 叶わぬ恋と知りながら、それでもゲーテの愛の情熱は冷めることなくシュタイン夫人へと向けられていきました。 ナビ:それ以後、シュタイン夫人はワイマール初期の10年間のゲーテの生活と詩作、思想と感情にきわめて深く関わることになりました。 知性に富み、成熟した大人の女性であったシュタイン夫人との関係は、ゲーテを人間的に大きく成長させていきました。 しかし、それは同時に文学的空白期間となり、ゲーテが政務に力を注ぐ時期にもなりました。この間ゲーテは自分の地位を上げ、ワイマール劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策にも力を注ぎました。
ウー:ここからの10年間は映画でいったらざっくりカットされるような場面ばかりよね。 サー:文学者だから書いてなんぼだから仕方ないんだけどさ、これってよく見るとゲーテは政治家をやりながら舞台を通して教育を行おうとしていたってことなんだ。 ウー:自分の地位と技術をそんなふうに活かすなんてクールよね! サー:そうなんだ。根っこは詩人だけど法律家でもあるから現実的でもある。だから政治も手堅くこなしながら柔軟なアイデアも実現させていく。 ウー:まぁ女としてはどうかと思うんだけど、それでもさらに人妻を相手に10年も関係を続けるなんてゲーテって。。。 サー:相当デキる男だったってことだ〜ね! ウー:だね。少しはタケルにも見習ってほしいわ〜ね!! 観客T:・・・・・・・・
時は過ぎ1786年、ゲーテ37歳。 このときゲーテは念願だったイタリアへの旅を決行。このイタリア旅行はゲーテの生涯の中でも重要な出来事なのですが、これは幼い頃に父から受けた話からの影響、シュタイン夫人との関係から脱出、政治生活によって危機の瀕した詩人としての自身を取り戻すことが動機だったとも言われています。
2年後の1788年。 イタリアから帰国したゲーテは無断で旅立に出かけた代償として、シュタイン夫人からは冷たい態度で迎えられることになりました。彼女の目にはゲーテの行動が不信や絶縁の行為と受け止められていたからです。 シュタイン夫人からの信頼を失ったゲーテですが、この旅行から得た経験を通して精神と肉体の鋭気を養い、創作精神を復活させることに成功。これからは執筆活動、科学の研究に専念するといわんがばかりに政務からも手を引いていくのでした。 その時期、造花工場で働く23歳の愛らしい娘クリスティアーネ・ヴルピウスに恋をし、身分違いの恋愛によって世間からは冷たい眼が注がれる中、クリスティアーネと結婚。 教会で正式に挙式しなかったことが火に油を注ぎ、これによりシュタイン夫人との仲も決定的に決裂します。 これにより、ゲーテにとっての愛情と家庭的幸福に満ちた時代が訪れます。ゲーテは『ローマ悲歌』をはじめ幾多の詩や散文で彼女をたたえることになります。
1789年。クリスティアーネとの間に長男アウグストが生まれます。ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れませんでした。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれましたがいずれも早くに亡くなり、成人したのはアウグストただひとりとなるのでした。 そしてこの時期、詩人・作家であるシラーとの出会いもゲーテにとって大きな出来事のひとつになりました。シラーとの交流によって文学的な感性を刺激されたゲーテはこの助けを借りながら傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を完成させ、ライフワークとなる一作『ファウスト』の構想をまとめていくのでした。シラーと出会えていなかったら、『ファウスト』は完成しなかっただろうと後にゲーテは語っています。
1805年5月9日。悲愁の年。ゲーテ56歳。 シラーは肺病のため若くして死去する。周囲の人々は同じく病にかかっていたゲーテの精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったといわれています。 「わたしは自分の命を失うかと思っていたところ、いま、一人の友を失い、かつまた、この友とともにわたしの存在の半分を失う」 ゲーテはそう、嘆き病の中で亡き友へと伝えました。 一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死を持って終わるとされています。
ナビ:そして晩年のゲーテ。 クリスティアーネとの正式な結婚、自由奔放な恋愛、ナポレオンやベートーヴェンとの出会い、2度目のイタリア旅行など、その豊かな経験を精力的な執筆活動につなげていくことになります。 ナビ:晩年、ゲーテが書いた主要な著作の中には自叙伝『詩と真実』、色彩の研究書『色彩論』、詩人ハーフェズに影響を受けて執筆した『西東詩集』などがあります。 死の前年の1831年、ゲーテ82歳。 ゲーテは遺言状、『ファウスト』第2部全篇、『詩と真実』の第4部完結を書き終えます。 そして1832年。 3月22日、午前11時30分、ゲーテは永眠します。 「もっと光を!」 この言葉を最後にこの世を去ったと伝えられるゲーテは葬祭の後、大公爵家の墓地に、アウグスト大公、シラーと並んで安置されることになりました。
双子:パチパチパチパチ!(拍手 観客:パチパチパチパチ!(拍手 ウー:いや〜、素晴らしい人生だったわね。 サー:うん。。。 ウー:。。。なに、どうしたの。感動して声がでないのか、トイレにでも行きたいの? サー:ピ。。。
【アナウンス】 ピンポーン。 これより、10分間の休憩とさせていただきます。 休憩中、飲食はご自由にお取りください。 それではゲーテの話題で盛り上がっていてください。
サー:ちょ、ちょっと行ってくるー!! ウー:ちょっと待ちなさい。今から飛んでも間に合わないわ。だからね、こうやって。。。 Doooooooon!! 観客:Yeahhhhhhhh!! サー:バ、バカやぁありがとぉおぉぉおぉぉぉ〜〜〜 ウー:さっ、休憩きゅうけい。第2部がはじまる前にゲーテのゴシップネタが炸裂するわよ!!