紹介劇『宮沢賢治』 《休憩中》


世界の詩人を紹介するショータイムのコーナー。それが世界詩人劇場(in 日本公演)
人生の次は人間を知るための休憩時間。ノートリー兄妹が宮沢賢治の話題で盛り上がるってさ!

休憩中:『平和な世界の描き方』



    ウー:心象スケッチの話っていうけど、そもそも心象スケッチってなんなの?

    サー心に見える景色を描写すること。シンプルに言うとそうなる。これは決して特別なことなんかじゃなくて、想像力を持っている人間には誰にだって備わっている能力だよ。

    ウー:いわゆる直観(哲学で、推理を用いず、直接に対象をとらえること。また、その認識能力。直覚。)というやつね。
     子供が雲を見て、そのカタチを「ゾウみたい」「クジラみたい」と例えるようなことかしら。
    (※例えばこの写真の雲はクジラのブリーチングに見えたりとか。)


     その延長上にある技術のようなものだよ。

     心の目で見る風景を言葉で描くことは直観作用が重要なのだけど、それはただ自然に備わるものではないんだ。ひらめきや勘も必要なのだけど、頭と心に散らばっている想像力を具現化するには精神の努力が要求される。

     さっそく文献を散りばめながら説明していこう。




    【詩人の眼】

     普通の人には見えない幕といえば、おそらく自然観なのである。
     考えてみれば私たちは宇宙自然を見るのに、対象化することに慣れすぎてしまった。天の光をあびてユリのにおいが波だっている、そういう状態を「実景」として感受する直裁性を失ってしまった。だから、波だつという表現を比喩としてしか考えない。
     賢治は別に難しいことをいっていたのではない。
     ただ自らの天の下に立ち、におい波だつユリを感じた、それを言葉として紡いでいったにすぎない。
     読者に読んでもらおうと切望していたわけでもなく、内面からあふれるままに、内面のみに従って表現していった
     私たちは1つの作品を前にした場合、「読者」として対する習慣にも慣れすぎてしまったから、自分の感覚の外にあるものは難解歌と銘打ったりして、何とか解き明かそうという愚行をはじめる。愚行にすら慣れすぎている。

     主体の置き方が人間中心から解放されて、空にも山にも自由に行き来できる、そういう未分化の世界がそこにはある。読者も解放されてはじめて足を踏み入れることができる。
     賢治の自然詠が、普通いう自然詠と根本的にちがうのは、発想の地点にあった。
     自然すべてに生命があり、人間と同じように自在に交換し、躍動する以上、それは人事詠と寸分ちがわなかった。そういう歌を湧出させたところにも賢治の特異さを見ることができる。



     なるほど。
     人は日常生活をする上でモノゴトを見るときは社会のルールや他人(ひと)の見方や考え方を自分の物差しにして、そのフィルター(幕)でモノゴトを捉えているところがあるわよね。

     日本人になら特にわかるかもしれないけれど、無意識の内に自分の気持ちを押し殺しながら周りの空気にあわせなくちゃいけない状況ってよくあるじゃない?

     そんな中にいてもボクにはワタシには「こう見える」「こう想う」という気持ちを失くさずに、自分の世界を表現していくことが心象スケッチに必要な条件なのね。


     それは文学者や芸術家がよく持っている資質。
     それをさらに磨き上げて備わる詩作法が心象スケッチなんだ。

     これは詩人だけじゃなくて、音楽家や画家にも応用が効くと思うから、ちょこっとややこしいことを書くかもしれないけれどがんばって身に付けてほしい。


     ややこしいと言えば賢治も心象スケッチに関してこんな言葉を残しているわ。

      これらは決して偽でも架空でも窃盗でもない。
      多少の再度の内省と分析とはあっても、
      たしかにこの通りその時心象の中に現れたものである。
      故にそれは、どんなに馬鹿げていても、
      難解でも必ず心の深部に於いて万人の共通である。
      卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。



     よく絵とか詩とか音楽を見たり聞いたりして「これはよくわからない」とか「むずかしい」という人がいるけれど、その大抵が作品ではなく鑑賞者本人の視野がまだそこまで行き渡っていないからなんだ。
     心のず〜っと深いところにある感覚的に見えるモノゴトほど実は本当に純粋な世界なんだってことを賢治は言いたいんだ。


     そんなふうな「ほんたうの眼」を持ってモノゴトを見ることが心象スケッチを学ぶポイントなのかしら。

     世間が決めるモノゴトの見方や捉え方も間違ってはいないけれど、自分の心の奥底で見たり感じたりする『現実』は決して『幻想』とは考えなかった。むしろそんなイノセントな目線で色んなモノゴトを見ていた方がもっと豊かな平和と平等が叶う世界になるんじゃないかなってアタシは思うの。


     “原始的感性”というのかな、、。
     人間の奥深くに眠っている極めて純粋な感覚。

     それはよく子供の心と間違われやすいけど、世間の常識や社会のルールとはまた違う、すべての人に本来備わっているはずのイノセンスな感性がこれからの時代では特に重要になってくる。



    ウー:なんでもかんでもお金や知識や理論、学歴や肩書きや数字や物量やルールでがんじがらめにされている世の中だものね。

    サー:そんな世の中でこの感覚を保っていくことは並大抵のことではないんだけどねぇ、、。

    ウー:だけどさ、だからこそ逆に多くの人にその感覚を解き放ってほしいのよ!

     賢治の心象スケッチは、万象に宿り、しかも覆い隠されたままの本源的な想いを解き放つ。<心象スケッチ>そのものが、本源的な意味での<解釈>であり、開放的行為といえる。

     資料の中のこの言葉から話を先へと進めていくよ。




    【心象スケッチの誕生】

     <スケッチ>という言葉には、ある種の軽さが漂っている。
     作者が力んで何かを表現するといった意気込みがない。賢治の心象に映ずるものをそのまま筆記するだけで、創作者というより伝達者である。
     このような創作態度が徹底されると、もはや作者はただの記述者(スケッチャー)にすぎなくなる。真の作者は、自分のなかのエクリチュールの精神ともいうべきものである。

     こうした徹底した受動性を貫くことは、至難の業でもある。
     それは「裸身」にて立ち向かうことだからである。




    サー:これのどこが至難の業なのかわかる?

    ウー:、、う〜ん?楽しいはずの詩を書くことがなんで至難の業なのかしら。わからないわ。

    サー:ボクにはその答えがわかる気がする。前に開いた『世界詩人劇場 ジョン・キーツ公演』のときに消極的受容力の話をしたよね。
     詩を書く上で大切なことは心を大きく広げて受動的になって、未知なるヴィジョンをキャッチするためのアンテナを張らなくちゃいけない

    ウー:、、そのためにも自分自身の精神をまる裸にしなくちゃいけないってわけね。だけど世の中は絶えず動いている。そんなふうに宇宙に向かって見えない釣り糸をぶらさげて魚を待ち続ける暮らしをしていたら世間から置いてきぼりにされてしまうわ。

    サー:生活能力のなさとか子供を残せなかったことを両親にあやまっていたけれど、この能力と感覚を大切にしている人にはその気持ちが痛いほどよくわかるよね、、。

    ウー:、、ちょっと、そんなこと言ってもタケルの人生のいいわけにはならないわよ。

     とにかくだ!

     消極的受容力によって心象スケッチをする本物の詩人は趣味や商売のために詩を書いているんじゃない。歴史上の偉大な詩人の多くは生活無能力者だったり破天荒な性格をしていたり、そんな無法者すれすれの奴らばかりだったんだけど、彼らはみんな真剣に詩を書いて生きていたからこそそうなってしまったんだということを詩人を代表してここに宣言しておく!!


     はいはい。
     それもちゃんと遺言に添えておきますからね。

     けれども本当に至難の業ね。
     人が社会を生き抜く上で必要な身ぐるみを脱ぎ捨てなければ書けない領域。仮にどんな詩を書けたとしても誰かに褒めてもらえるわけではないし、生活の糧につながるわけでもない。

     賢治はそれを覚悟の上で続けていた。


     世の中にはこんなふうにして人の意思や志(こころざし)を理解したり、受け継いだりする人もいるんだけどね。

     心象スケッチはある一面においてはことばにおける世界の魔術的変容であり、この現実世界(「イハテ」)を、夢のような理想郷「イーハトヴ」に変えようとした錬金術であるんだ。
     アラビア世界で盛んに試みられ、中世の西洋世界に受け継がれた錬金術は結局のところ失敗におわっても、そこからさまざまな成果が派生した。

     賢治も志半ばで力尽きてしまったけれど、
     こんなふうにして詩人の先輩である賢治の夢の欠片はボクら未来の詩人が心を砕いて削ったり、磨き上げていくよ


     アタシたちには詩と詩人の正体が一体なのか、それがようやくわかりかけてきているものね。

     錬金術の延長上にある話なんだけど、化学において独自の特性をもった物質を結合させて新たな化合物を作り出すようにして、賢治が描いていた心象も独自の小さな世界(ミクロコスモス)を言葉で構築している。
     それをさらに組み合わせて、より大きな世界(マクロコスモス)を描きだしていく詩人の営み――


     ――それが『万物照応』

     またの名を『コレスポンダンス』
     わかりやすい説明の資料をここに貼っておくよ。


     詩人がここに立っていて、遠くの方に風景があるだけならば、詩人の中には感想しか生まれないだろう。
     だが詩の場ではしばしば客観世界と詩人自身は相互に作用しあう。
     外の世界が詩人の心に影響するだけでなく、詩人の心が世界の側に働きかける
     自我は世界から孤立したものではなく、自分は世界と共にあるという認識が心の中に喜びを呼び覚ます。
     交感の興奮が人の心をゆりうごかす。ボードレールの言うコレスポンデンス(万物照応)だ。
     詩人は風景の中に精神的な意味を見つけることで、世界に意味があること、客観的な意味ではなく、自分にとっての意味があることを知る。
     それは、自分と世界が対峙しているのではなく、自分は世界の中にあることの証でもある。
     生きているという感じは自分の周囲の世界の間をなにかが行き来することによって伝わる。



     それじゃぁ日本が誇る詩人・宮沢賢治流の万物照応の感覚に近い言葉をピックアップしてみるよ。





    【万物照応の感覚1】

     そら ね ごらん
     むかふに霧にぬれている
     茸のかたちのちひさな林があるだらう
     あすこのとこへ
     わたしのかんがへが
     ずいぶんはやく流れて行つて
     みんな
     溶け込んでいるのだよ


    【万物照応の感覚2】

     自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
     この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
     新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
     正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
     (中略)
     農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
     そは直感と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の想像である
     (中略)
     風とゆききし 雲からエネルギーをとれ


    【万物照応の感覚3】

                あぁ何もかももうみんな透明だ
            雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
           風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
            じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
        それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ




    ウー:自分が全宇宙とのつながりを感じながら、現実の社会を生きていく

    サー:そんなふうに感じられたらこの宇宙全体が自分であるという捉え方もできるよね。
     こんな感覚を持ちながら生活をすることができれば、自分だけじゃなくて他人や自然に対して考えを行き渡らせることができる。

    ウー:そうすれば人は今よりもっと色んなことをよく知ったり感じることができて優しくなれる
     詩人の仕事というのは言葉で編んだ詩というミクロのコスモスを通して、マクロなコスモスの感覚を解き放っていくことなのかもしれないわ

     心象スケッチというのは本質的な意味での<うた>のことを指し示す。
     万物照応のセンスを通じて存在の響きやリズムに呼応しながら<うた>を編んでいく。そのリズムが自分を含めた他のありとあらゆる存在に内在していることを確信していた。賢治にとっての理想の詩は、自然の中にあるリズムを詩というミクロコスモスの中に凝縮させながら、マクロコスモスを実際に体感できるようなものだったんじゃないかな。


     今度はアタシが資料を読むわね。


     存在の響きが風にのって、というより風となって伝わってくる。そのリズムは音楽となってあらわれる。

     <うた>は「ものたちの心が動いたときのもっとも表現しやすい方法の1つ」というより、「感=動」の原型的表現ではないだろうか。
     始原のことばは散文ではなく、<うた>であった。
    「詩は人類の母語」(ハーマン)。「存在するものたちの訴えやつぶやき」を、そのまま写すのが、賢治の<心象スケッチ>であった。
     原初において、存在の響きが遍く生起している。それがリズムとして伝わってくる。
     賢治がもっと早く近代西洋音楽の素養を身につけていたら、まっさきに作曲家になったかもしれない。

     賢治はこれらの試みによって、詩を音楽的に修飾しようとしたというよりも、詩(うた)をかぎりなくその原点である音楽に近づけようとしたということのほうが適切であろう。



    ウー:賢治の理想とする詩作方法は現代詩の方向性とはまったく逆の方向ね。

    サー:そうなんだ。タケルもこの万物照応のリズムをベースにしながら書いている

    ウー:賢治は万物照応という言葉ではなくて、<心象宙宇>という表現で心象スケッチをしていたけれどだいたい同じような考え方だわ。

      正しく強く生きるとは
      銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
      新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある


     これは賢治の言葉。
     この考え方の延長上にある有名な言葉が――



    ウー世界がぜんたい幸福にならないうちは

    サー個人の幸福はあり得ない。

    「自我の意識は個人から集団社会宇宙としだいに進化する」というものよ。

     人間も動物も、草木も山も海も、この世のありとあらゆるものが何らかの意味と価値を持ってつながりあっている
     そういう気持ちで生きとし生けるものすべてが助け合いながら生きていくことに本当の幸せを見出だしていたのだと思うわ。


     ボクはこの考え方が今の日本人に必要だと思うんだ。

     賢治が愛した東北の大地は震災以降、津波や放射能によって大きく変化してしまった。
     津波は天災だから抗う事は困難だけれど、原発が生みだした放射能は人災にあたるからボクらの意識次第でこれから解決していくことができる。

     そんなときに役立つのがこの考え方
     さっきウーノが言ったように人間も動物も、草木も山も海も、この世のありとあらゆるものはつながりあっている。

     だとしたらそれは放射能の影響にも同じことがあてはまる。
     科学的にも自然が汚染されれば動植物も汚染される。それを食べる人間にも害が及んでくる。これは科学的な問題の話ではなくてきっと人の心にも何らかのカタチで影響しているはずだ。


     自分が幸せに暮らしていくためにもぜんたいの幸福を実現させる必要があるのなら、今のアタシたちがどういう選択肢や行動を取るべきなのかがハッキリと見えてくるような気がしない?

     アタシはこう思うの。
     この世の中で本当にいらないものを本当に消し去るには、より強い言葉で非難を続けたりより多くの否定を繰り返すより、この世界全体に満ちている深いつながりを肯定していく強くて大きな愛の力が必要だと


     賢治が抱いていた万物照応の感覚をみんなが持つことができれば、それがいつかこの国に本当の豊かさや安心をもたらしてくれると信じているんだ。

     そうやってひとり一人がより大きな視野と広いつながりでモノゴトを感じながら、より高い危険予知能力を備えることが最高の盾になり最強の矛になってくれる。

     そんな世界に気付いてもらったり、感覚を解放していくことが真の詩人の仕事と言えるのかもしれない。



    【アナウンス】
     ご来場のみなさまに申し上げます。

     間もなく第2部の開演となります。
     ご着席になり、しばらくお待ちください。



    ウー:心象スケッチの話をしていたのに、いつの間にか賢治の考え方が世界平和の実現に役立つってトコまで広がっちゃったわね。

    サー:賢治が詩や童話を通して伝えたかったことって、きっとこんなことだったんだと思う。

    ウー:雨にも風にも何事においても負けまくっている人がよく言うわよ、、。

    サー:、、な、なりたくてこんな自分になったんじゃないやい!!

    【開演前ベル】
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