紹介劇『宮沢賢治』 《第1部》


世界の詩人を紹介するショータイムのコーナー。それが世界詩人劇場(in 日本公演)
今回紹介する詩人は『宮沢賢治』。心に見える風景をスケッチする達人の人生を知る第1部、開幕!

開演前:『アナウンス』


    【アナウンス】
     ご来場のみなさまに申し上げます。
     本日は紹介劇『宮沢賢治』ストーリー劇場公演にご来場いただき、まことにありがとうございます。
     開演に先立ち、みなさまにご案内申し上げます。

     本公演の主人公、
     宮沢賢治は、
     1896年〜1933年までを生きた日本の詩人・童話作家、また農学校教師・農業技師でありました。

     岩手県出身の国民的詩人であり、“心象スケッチ”という創作理論によって生前に数々の詩や童話を書き残した作家です。
     作品は、

     詩集『春と修羅』
     童話『注文の多い料理店』
       『銀河鉄道の夜』
       『グスコーブドリの伝記』
       『よだかの星』

     など。宗教家として自己犠牲をテーマにした作品を書き、死後に評価をされた日本を代表する詩人・童話作家です。

     それでは間もなく開演となります。
     ご着席になり、しばらくお待ちください。



    ウー:祝『叶うアンケート』第1位!
     未完文楽団のアンケートフォームに投票してくれた人たちによって決まった世界詩人劇場初の日本公演は宮沢賢治くん。

    サー:そのアンケートのシステムの設計がなかなか難しくて今は機能を止めているんだけど、今回の公演は期待通り開かれるようだよ。

    ウー:しっかし、賢治くんの伝記は図書館にいっぱいあるからなんだかやる気がわかないわ。

    サー:いやいや!そこはウーノさん、投票してくれた人のためにもやる気を出して応えないといけない展開ですから!!

    ウー:、、そうねぇ。

    サー:そうだよ、、。

    ウー:、、でもねぇ(ウーノさんはアンケートのシステムが解決しなくてふてくされています)

    サー:あぁもうめんどくせぇからいいや、はじめちまえ!いや、はじまるぞ!!

    【アナウンス】
     お待たせしました。

     第1部は『宮沢賢治の人生』
     途中休憩をはさみ、
     第2部は『宮沢賢治の作品』の順に進行して終演とさせていただきます。

     それではみなさま、

     紹介劇『宮沢賢治』

     どうぞごゆっくりお楽しみください。


    【開演前ベル】
     ting-ting-ting-ting-ting...

     ting-ting-ting-ting-ting...

     ting-ting-ting-ting-ting...


第1部:『宮沢賢治の人生 〜東北地方の心象派』



    ナビ:ときは1896年。岩手県花巻町(現在の花巻市)。この地にその後の日本文学界に大きな影響を与える詩人が誕生しました。





    ナビ:彼の名は宮沢賢治




    観客パチパチパチパチ!(拍手

    ナビ:岩手県の質屋を営む家庭の長男として生まれた宮沢賢治は、浄土真宗門徒である仏教信仰の厚い家庭環境の中で育ちます。
     家業をつぐ予定にあった賢治は小学生のとき、質屋を嫌う自分に家業をつぐ才能がないことに気付き考えを変えていきます。

     18歳で妙法蓮華経に感銘し、父に反対されながらも日蓮宗へ改宗。
     ここから賢治の宗教家としての人生が始まり、その厚い信仰心は生涯に渡る彼の創作活動に大きな影響を及ぼしていきます。


    サー:詩人・宮沢賢治の作品を深く知る上で重要なポイントは、彼が作家であるという以前に熱心な宗教家であったということ。そこを押さえておけば彼の人生と作品がググッと大きくわかってくるはずだよ。

    ウー:それはいいけどこの浄土真宗とか日蓮宗ってなんのこと?アタシにはその違いがよくわからないわ。

    サー:野球で例えるとしたら、賢治の親父さんは代々家族ぐるみでタイガースのファンをしていたのに、息子が「オヤジ。おれ、今日から熱狂的なジャイアンツファンになるわ!」って言い出すような感じ。

    ウー:、、、アカン。それアカンで、、、。

    サー:賢治は小学生の頃から野山を歩いて植物や鉱石を採集するのが好きな子だった。14歳からは短歌も作っていたんだ。何かを収集するのは質屋譲りの気質だけど、彼が持ってた文学的な素質は商才を求められる家業とはあわないのだと直感的に気付いたのかもしれない。
     まるで自分の家から離れる動機が欲しいと言わんがばかりに宗派を変えた。その2つが父との関係の溝を深めていたようだよ。

    ウー:これもひとつの反抗期なのかしら?

     小学校卒業後、県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。盛岡市内の清養院で下宿生活をしながら18歳のときに盛岡中学校を卒業します。

     1915年、宮沢賢治19歳のときに盛岡高等農林学校に入学。盛岡地方の地質調査に積極的に参加しながらも短歌を書き続け、同人誌を創刊する活動も行っていました。

     21歳で盛岡高等農林学校を卒業するまでに地質・土壌・肥料研究のために研究室に籍をおき、関豊大郎博士の指導を受けながら土性調査に従事しました。


    サー:宮沢賢治を知る2つ目のポイント。
     それが
     小さな頃から地元の山を歩き回って鉱物集めに熱中していた賢治の知識と情熱は農林学校でさらに深まっていった。

     その影響を受けてなのか、賢治の詩の世界はどこか土臭い自然の厳しさとおおらかさを感じられるんだ。

    ウー:有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の句は賢治の持つ土性があるからこその説得力なのかもしれないわ。

     タケルもそんな鉱物好きの賢治のために『ノスタルジック・コランダム』という詩を書いたくらいだもの。「アンタどんだけ土と石が好きなんだっつ〜の」って思いながら書いた記憶があるわ。

    サー:『宗教』と『土』。その2つを精神的な土壌にしながら短歌によって文章力を高めていった賢治。ここからもう少ししたらぼくたち日本人が良く知る詩や童話が誕生していくよ。

  •  農林学校を卒業後、妹トシの入院を知り、母と共に上京した賢治はトシの看病に入りました。

     トシの回復後、盛岡高等農林学校研究科修了。それから家業を手伝いながら、読書・地質調査を続けます。

     20代半ばの賢治は法華経と日蓮宗への信仰が深まり、上京をして筆耕・校正の仕事をしながら国柱会の街頭布教に奉仕しました。

     ところが賢治25歳のとき、トシが病気になり帰郷。詩作にうちこみながらも農学校の教師になります。

     そして翌年1922年、11月にトシが死去。これに賢治は大きなショックを受けたのでした

     このトシの身に起きた出来事が賢治の人生にとって大きなターニングポイントと言ってもいい。

     彼の人生には創作をする上でのモチベーションになったり運命を変えてくれるミューズ(ギリシャ神話で、文芸・学術・音楽・舞踏などをつかさどる女神ムーサの英語名)となってくれるような女性は登場しない。

     恋愛感情とは違うけれど、賢治にとってはそれが妹のトシだったのだと思う。


     家族の中で唯一信仰をともにした妹のトシは賢治にとって特別な存在だったようね。
     看病する生活を続けたり、田舎に帰って仕事を変えてまで付き添うだなんて家族同士でもそう簡単に選択できないわ。



    サー:ウーノはもちろんボクが病気になったらどこにいたってかけつけてくれるよね?

    ウー:知るかそんなもん。

    サー:ありがと、ぉぇぃぁぅ、、とにもかくにもこのシスコン詩人は最愛の妹を24歳の若さで失うことによって人生の転機を迎えた。

    ウー:その嘆きは『無声慟哭』などの詩作品に書かれているわね。それからは世界詩人劇場恒例の《大きな悲しい出来事があった後スーパー詩人に覚醒する展開》は彼にもあったのかしら?

    サー:もちろん。その悲しみをバネにできるのが一流の詩人だって何度も言ったよね。

     26歳の頃に妹を失くした賢治はその2年後の4月に詩集『春と修羅』を自費出版しました。同年の12月には童話『注文の多い料理店』を刊行。この頃には『銀河鉄道の夜』の初稿が成立しています。


    観客ザワザワザワザワ、、

    ウー:いやいやここは「イエーィ!」でしょ。日本人は外国人よりも反応が悪いわね。こんなんだから外国のアーティストがライブをした後で「日本のファンは静かなお客さんが多いんだね。ハハハ」という反応をされるのよ!

    観客Yeahhhhhhhh!!

    ウー:言われてやるあたりも日本人らしいじゃない。とにもかくにもこのあたりから賢治は自分の世界を外に向けて発信するようになる。

    サー:このとき賢治28歳。それから森佐一や草野心平と交流を持つようになるんだ。

     その後、賢治は30歳で花巻農学校を退職。
     家をでて下根子で農耕・自炊の生活をしながら花壇をつくり、荒れ地を耕し続けます。
     8月になると羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を設立し、無料の肥料設計事務所を各地に開き、農村をめぐり歩く仕事をはじめます。

     翌年には冷害や日照り、病虫害などの予想のあるごとに農村をまわり、農民をはげましながら歩き続けます。

     安定した教師の仕事をやめて自ら農民になり、さらに農業指導者としての道を歩むようになった。ようするに賢治は農家の人々をサポートする自営業をはじめたってことでいいのかしら?


     そんな感じだと思う。
     農学校の教壇で培ってきた知識を今度は現場で発揮して普及することに努めようとしたんだとうね。
     賢治は岩手県の農民たちの生活向上を目指して指導に奔走しながら自分の郷土や大地に対する愛情を行動で表現した

     肥料のセールスマンの仕事と言ったらそれまでだけど、文献を見ている限りそれ以上の豊かさや理想を追求するためにこの営業職を設立したって言っていいと思う。


     賢治の作品にたびたび登場してくる理想郷『イーハトーヴ(イーハトヴ)』という造語は賢治の心象世界の中にある“理想郷”のことをあらわしている。
     自分の故郷である岩手県の理想像を心の中においても現実の中においても実現させようとしたところに賢治の作品と生き方の魅力の真骨頂といっても過言ではないわ。


     あぁ。本当に大したもんだ。

     ところがその理想の実現は皮肉なかたちで頓挫してしまうことになる。
     羅須地人協会を設立してから2年後、元々体が強くもなかったのに外で働いたり、夜は執筆活動にも精力的でいたせいか、32歳になったときに発熱で病の床についてしまう。それに追い打ちをかけるかのように急性肺炎で病気が長く続くことになる


     30代半ばからの賢治の人生は病気との闘いでもありました。
     健康を害した体になっても農家のために雨の中を駆け回る日々を送った賢治の体は過労のために日に日に衰えていきます。

     1928年から病床に伏した賢治は両親に連れられて実家で闘病生活を続けることになります。このとき、賢治はおぼろげながらに自分が妹と同じ病にかかっていることに気付くのでした。

     少しでも体調がよくなるとまくらもとに置いてあるノートに詩を書きながら月日を重ね、1831年、賢治が35歳の春を迎える頃に病気がよくなって、外へと出歩けるようになるのでした。
     


     よかった!
     なんだかハラハラさせられる人ね。がんばるのはいいけど、がんばりすぎるのも考えものよ。


     でもさ、考えようによっては賢治が丈夫な体を持っていたらこんなにも文学に打ち込むことはなかったと思うと、それはそれで運命の皮肉さを感じるんだよ。

     賢治の人生は『農業』と『芸術』と『宗教』
     この3つが共存した理想的な平和の世界を叶えるためにあったと思うけど、それを実現するエネルギーは賢治にはなかった。
     ボクが思うにもっと自分を理解してくれたり頼れる人がそばにいたり、人生を長い目で見ながら手を抜くところは手を抜くことができれば話は変わったのかもしれない。


     えぇ、同じ詩人でも誰かさんとは大違いだわ。

     そして少し元気を取り戻した賢治は東北砕石工場の技師になるのよね。当時、東北地方の土壌は酸性だから炭酸石灰をほどこす必要があったと信じられていたの。
     その効果の方は専門家じゃないから定かではないけれど、そんな話をもちかけられた賢治は科学的な見地から農家や農業の力になろうとしたのよね。


     あぁ。それからはその肥料を岩手県や東北地方のみんなに使ってもらえるよう方々を営業して回ったんだ。

     本当は無理しちゃいけない体なのに無理をしてがんばって、工場の仕事がさらに忙しくなってからはますます大きな負担がかかるようになっちゃって。
     そのツケがあとで回って来ることを覚悟していたのかそうでないかは定かではない。

     けれども自分の体はもう少し大切にしてほしかったな、、。


     あら、アタシはそんなふうに思わないわ。

     きっと賢治はこのときとても幸せだったはずよ。
     なんてったって自分が大好きな石に関わる仕事をしながら農家や農業のためになろうとしていたんですもの。
     大きなトランクの中に石のサンプルを詰めて岩手から東京まで汽車でかけつけて問屋さんと話をつけようとしていたんだもの。

     好きなことでなきゃこんなに知恵と情熱を持って仕事に取り組めないわよ
     長生きして文章を書き続けた方がよかったっていうのは結果論。だって日本中の誰もがよく知る詩人・宮沢賢治は生きている間はまったくの無名だったもの。童話の出版も出版社から断られまくっていたそうじゃない。
     それが死んだ後で神格化されてこんなふうになることを思うと人間の感覚なんて気まぐれなもの。だったら自分の好きなことを精一杯になってやり続けることの方が正しいと思うわ。

     傍目から見て、
     例えどんな結果が待ち受けていようとね。


     再び上京をした賢治はひどい発熱に襲われました。
     上野について、駿河台の八幡館という宿屋に辿り着いた賢治はそのまま起き上がれなくなってしまいました。

     その宿屋で今度こそ覚悟を決めた賢治は手帳に両親への遺言を書きました。


    「この一生のあいだ、どこの、どんな子どもももうけないような、厚いご恩をいただきながら、いつもわがままで、お心にそむき、とうとうこんなことになりました。
     今生で万の一も、おかえしできませんでしたご恩は、きっとつぎの生、またそのつぎの生で、ご報じいたしたいと、それのみを念願いたします。
     どうぞ、お題目で私を呼びだしてください。そのお題目で、たえずおわび申しあげ、お答えいたします。」



     日付は9月21日のことでした。

     なんつぅ〜健気な人なの。でも安心なさい。あなたはもう十分報われているわ

     子供はもうけられなかったけど、作品は日本中の人たちに愛されているのだもの。

     しっかしこの遺言、コピペしてタケルの人生にもそっくりそのまま使えそうね。今から準備しておこうかしら、、。


     花巻からの電報を受け、実家に帰郷した賢治はその後、2度と家を離れることができませんでした。

     病床にいながらも農民のことを気にしていた賢治がこのとき書いたのが後に『雨ニモマケズ』と呼ばれる詩でした。
     この詩には賢治の文学に特徴的な自己犠牲(自分のことを捨て、人のために尽くそうとする心)の精神があらわれています。



    観客ザワザワザワザワ、、

    ウーオラァ!聞いてっか!!テメェ(自分)を守るために周りの空気を読んでばっかの日本人ども!!今の東北地方の姿を見たら賢治はどんなに悲しむことでしょうねぇ!!

    サー:いきなりどうした!?

    ウー:、、ごめんなさい。ほら、この日本社会ってさ、どこぞの会社をはじめとして、地方の人たちやお金のない人たちにロクでもない仕事を押し付けて、自分たちは都会の中でぬくぬくと暮らし続ける奴らがいるじゃない?
     今回、宮沢賢治を調べるたびに東北地方の現状と気持ちがリンクして、なんだかやるせない気持ちになっちゃったのよ、、。

    サー:ウーノ、そういうのは確かに存在するんだけど、日本人のみんながそうというわけではないんだよ――

     ――ボクらは震災以降、手探りながらに助け合いながら生活をしてきた人をたくさん見てきたじゃないか。
     自分の心を砕いたり、身を粉にして自分にできることからはじめたり、続けていく人もいっぱい見てきた

     さっきウーノ自身が言ったじゃないか。
     賢治はもう報われているって。
     彼の精神はどこかの誰かに連綿と受け継がれているんだよ


     そうね。
     その通りだわ。

     今日はその賢治の精神をたっぷりと伝えることが今のワタシたちにできること。その仕事を果たしましょう。


     1932年。賢治36歳。
     外へ出る力もなくした賢治は寝たきりの生活の中、詩作と童話を書くことに残された力を注ぎます。

    『グスコープドリの伝記』もこのときに書かれたものです。
     また、『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』もこの頃に書き加えられたと伝えられています。

     賢治の体はいよいよ弱っていく一方で、ときどき血をはくようになります。このとき賢治は自分の病気が妹と同じ結核であることを自覚しました。

     そして、1933年(昭和8年)。

     9月21日の朝、2階の部屋から法華経のお題目を唱える賢治の声を聞いた家族に看取られることになった賢治。

     最後に日本語訳の法華経を1千部つくり、それをお世話になった方々に配るよう父に頼みました。
     それを聞き受けたことを知った賢治は安心したように目をつむり、静かに息を引き取りました。

     午後1時30分。
     宮沢賢治の37歳の生涯はこうして幕を閉じました。





    双子パチパチパチパチ!

    観客パチパチパチパチ!

    サー宗教的にわかりあえなかった父と最後の最期で気持ちが通じあえたことが賢治にとっての救いになったとボクは信じたいな

    ウー:うん。そして肉体は大好きな土の中で、心は銀河の中で、魂は仏さまの世界で安らかにしているはずよ。

    サー:だけどまだ終わってはいない。今回の公演はここからが本番だよ。

    ウー:えぇ、彼の人生は文献を探ればいくらでも知ることができるもの。ここからのアタシたちの考察が宮沢賢治公演のメインになりそうね。


    【アナウンス】
     ピンポーン。

     これより、10分間の休憩とさせていただきます。
     休憩中、飲食はご自由にお取りください。
     それでは宮沢賢治の話題で盛り上がっていてください。


     ここからはアタシたちの考え方や感性を発揮するわ!次のトークにテーマがあるとしたら一体どんな風になりそうかしら?


     テーマはズバリ心象スケッチ
     これでいくよ!



    ウー:賢治の創作に関する哲学のようなものね。

    サー:うん。それじゃぁさっそくテーマに移ろう。

    観客ワラワラワラワラワラワラ、、


    ウー:大丈夫だって。今度は怒ったりしないから。ぜひとも一緒に聞いてみて。

    観客Yeahhhhhhhh!!

    サー:震災以降の日本人の在り方においても賢治の考え方はとても役に立つから。迷ったり悩んだりしながら人生を闘っている人に。



    サー雨ニモマケズ――

    ウー――風ニモマケズ

    双子そういうものに、なりたい人のために






© 2018 未完文楽団.All Rights Reserved.