紹介劇『ヴィクトル・ユゴー』 《第1部》


世界の詩人を紹介するショータイムのコーナー。それが世界詩人劇場(in フランス公演)
今回紹介する詩人は『ヴィクトル・ユゴー』。ロマン主義の巨匠の人生を知る第1部、開幕!

開演前:『アナウンス』


    【アナウンス】
     ご来場のみなさまに申し上げます。
     本日は紹介劇『ヴィクトル・ユゴー』ストーリー劇場公演にご来場いただき、まことにありがとうございます。
     開演に先立ち、みなさまにご案内申し上げます。

     本公演の主人公、
     ヴィクトル・ユゴーは、
     1802年〜1885年までを生きたフランスの詩人、小説家、劇作家でありました。

     ロマン主義文学の指導者であり、共和主義者としてナポレオン3世のクーデターに反対し続けたフランス文学最大の詩人です。作品は、

     詩集『東方詩集』
       『懲罰詩集』
       『静観詩集』
     小説『ノートルダム・ド・パリ』
       『レ・ミゼラブル』
    叙事詩『諸世紀の伝説』

     など。フランス国内から世界中に大きな影響と存在感を与える作品を豊富な才能と体力から生みだしてきました。

     それでは間もなく開演となります。
     ご着席になり、しばらくお待ちください。



    ウー:やったぁ!
       詩人劇場初、女性詩人の紹介よ!!

    サー:?

    ウー:すっとぼけやがってこの。名前からして日系のハーフかクオーターかしら。

    サー:??

    ウーマリー・ユーコちゃん。どんな女傑なのか楽しみじゃない。

    サー(こいつ、大きな勘違いをしてる……)

    ウー:???

    【アナウンス】
     お待たせしました。

     第1部は『ユゴーの人生』
     途中休憩をはさみ、
     第2部は『ユゴーの作品』の順に進行して終演とさせていただきます。

     それではみなさま、

     紹介劇『ヴィクトル・ユゴー』

     どうぞごゆっくりお楽しみください。


    【開演前ベル】
     ting-ting-ting-ting-ting...

     ting-ting-ting-ting-ting...

     ting-ting-ting-ting-ting...


第1部:『ユゴーの人生 〜正義の肉食系大詩人』



    ナビ:ときは1802年。フランスの東部ブザンソン。この地にフランス文学の巨匠となる詩人が誕生しました。(※写真はパリです)





    ナビ:彼の名はヴィクトール=マリー・ユゴー




    観客パチパチパチパチ!(拍手

    ナビ:職人を兼ねた農民であり、商才にも富んだ祖父、ナポレオン1世の帝政時代には将校となった兵士である父、資産家の出の母の子として生まれたユゴー。
     彼はあらゆる職の系統をかき混ぜた家系に生まれた育ち、それは彼の特徴である健康と長命、豊富なエネルギーの源になりました。


    ウー:ってぜんぜん女じゃねぇじゃん!むしろガチムチなタイプの野郎じゃねぇか!!

    サー:それにマリー・ユーコじゃなくて、ユゴーだから。今回紹介される詩人は巨匠ヴィクトル・ユゴー。本国では詩人としても有名だけど、日本ではミュージカルにもなっている傑作『レ・ミゼラブル』の作者として知られている人だよ。

    ウー:レミゼ!アタシ何度も舞台に行ったくらい大好きな作品よ。え、こんなクマみたいなごつい人があんな作品を書いていたわけ?

    サー:うん。ユゴーはシェイクスピア、ゲーテ級の文学的巨人。超ド級エネルギーの持ち主と言っても過言ではない。

    ウー:なんだかんだで文学も体力勝負なところがあるわけね。。。

     ユゴーはその恵まれた健康と体力を活かし、十代の若さから晩年にいたるまで著作を社会に向けて出し続けました。

    「シャトーブリアン(フランスの小説家•政治家。ロマン主義文学の先駆者)となるか、さもなくば無だ」

     という決意を胸に、若くして詩の才能を認められたユゴーは書斎の中での執筆活動にのみ収まることはなく、文学運動の中心人物となり、ロマン派の首領となり、政治にまで足を踏み入れていくのでした


    サー:パワフルな人でしょ?

    ウー:クマの如き破壊力の持ち主ね。

    サー:厳つい肉体とエネルギッシュな行動力。だけどその内面はどこか暗くて神秘的。政治活動もしていたからゲーテと似ているところもあるんだけれど、ゲーテが陽だとしたらユゴーは陰という印象を受ける。

    ウー陽の巨人と陰の巨人

    サー:性格は父親譲りで、奇怪な異常な面に走りやすい想像力の持ち主。好色であり名声欲にも興味盛んだったようだよ。

    ウー繊細なオレさまキャラってとこかしら。

     一見すると万事順調に見えるユゴーの人生だけど、年を追うごとにその人生は波乱に富んでいくことになるんだ。


     戯曲『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富を手にしたユゴーはその後、パリのなかでも最も美しい広場のひとつで、革命前は王様広場と呼ばれたヴォージェ広場へと移り住みました。
     広場を囲む建造物はすべて貴族の館で、ユゴー一家はここで1832年から48年まで過ごすことになります。

     しかし、私生活は順調とは言えず、妻のアデールは友人のサント・ブーヴに奪われてしまい、その寂しさの中でユゴーは『リュクレス・ボルジャ』のネグローニ夫人役を演じた若き女優のジュリエット・ドルーエを愛人に選びました。

  •  彼女は生涯に渡り、詩人の恋人としてばかりではなく、その詩的霊感の源泉として連れ添う仲になりました。

     ジュリエットがユゴーに宛てた手紙はじつに1万7千通。

    「ジュリエット・ドルーエというあの素晴らしい女性がユゴーに捧げた揺るぎない愛情ほど、ユゴーの値打ちを保証してくれるものはない」と後にクローデルは言いました。

     30年間生きたらだいたい1万1千日を過ごしているってことは、1万7千通の手紙ってことは30年間付き合ったら1日に1通か2通は手紙をしている計算になるわ。

     なんかドン引きするような数字かと思ったらメール社会の現代ではそう大した事ないかも。むしろこれくらい心の紐をギュッと締めてくれる人の方が男としては頼もしいのかしら?


     そうだねぇ、どっしり構えた愛情豊かな女性は魅力的だね。
     詩人のような渡り鳥的な人種の人とはとても相性がいいと思うよ。

     とにもかくにもこのジュリエットがいなかったら、ひょっとしたらレ・ミゼラブルノートルダムの鐘はこの世に生まれてこなかったのかもしれない。

     そう思うと彼女の愛が果たした役割は歴史的な価値がある。


     アタシ最近世界中を飛び回ってこの世界詩人劇場を見ていてわかってきたことがあるの!

     偉大な人物が名作を生み出してきた影には必ずそれを支えてきた人のがあるってこと。
     やっぱり世の中すべてがなのね!
     愛こそすべて!!


     う、、う、うん。

     文学だけじゃなくて、他のどんなことも、
     世のため人のためになることを生み出すためには色んな愛情がいっぱい必要なのは絶対かもしれない。


     30代のユゴーのその後の出来事は、次兄ウジェーヌがユゴーの妻アデールを愛した末に精神病院で自殺。
     戯曲や詩を創作しながらブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンスと各地を転々と旅する生活が続きます。


    ウー:そのあとは偉い人と仲良くなったり、文芸家協会長になったり、アカデミーに落選したり当選したり。
     世俗的な名声を地位や名誉を欲しがったりするあたりオレさまキャラのユゴーさまって感じがするわよね。

    サー:うん。そんな30代の中で詩や舞台、戯曲の執筆を精力的に発表し続けていたんだ。

     ユゴーの長い人生の見所はここから
     20〜30代の間に培った技術や社交性が40歳になって集約されながら盛り上がってくるよ

     ユゴーが41歳の誕生日を間近に控えるとき、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリーが結婚式をあげました。しかし同年9月4日、レオポルディーヌは夫と共にセーヌ川で不慮の溺死をしてしまいます。まだ19歳の若さでした。
     その頃、愛人ジュリエットと旅をしていたユゴーは5日後にその事故のことを知り、12日にパリ帰ることになりました。


     ハッキリ言ってこの男、地位や名誉や才能がなければかなりのダメ人間なんだけど、アタシここでもこの世界詩人劇場を見ているからこそわかっていることがあるの。

     ひょっとしてユゴーって、愛娘のレオポルディーヌさんを失ってから数年後、傑作を完成させるんじゃない?


     さすがウーノ。
     その通りだよ。愛娘を失ったのは1843年。その翌年に傑作詩編『ヴィルキエにて』の第1稿を完成させたり、さらにその翌年にぼくらのよく知る長編小説『レ・ミゼール』(のちに『レ・ミゼラブル』となる)の執筆にとりかかるのさ!

     けれどもなんでそのことがわかったの?


     これはもうこのコーナーを楽しむ上でのお約束みたいになっているかもしれないんだけど――

     ――偉大な作家や芸術家というのはほぼ確実に自分の人生に起きる悲しい出来事をバネにして傑作を生んでいる。

     という法則が成り立っているからかしら。
     色んな作家の歴史を客観的に眺めて見ると絶対に共通することだから見ていてついわかっちゃうのよね。

     自分の娘を失うということほど悲しいことはない。
     それは楽しめないことだけど、それだけにその後でユゴーほどの詩人が何もしないわけがないわ!


     その通り。
     その法則を応用して考えれば、偉大な作家や芸術家になるためには悲しい出来事から目を反らさないこと。その事実を認めたり受け入れること。それをどう見つめてどう答えていく表現力を身に付けているのかが大切なのかもしれないね。

     もっと深く考えていくと、
     やっぱり答えはに辿り着く。

     どんな悲しい出来事が待っているとしても、先のことを恐れずに誰かや何かとつながっていくことでその人は喜びや悲しみを糧にしながら誰かや何かのためになるものをつくっていくことができるようになる。

     確かにユゴーはオレさまキャラなところもあるけれど、草食系男子と言われる昨今の日本人男性もこれくらいガツガツ誰かや何かを求めた方がむしろ自分たちのためになるかも。


     そうよ!

     アタシだったらそこらへんの当たり障りなく生活している平均的なつまんない男なんかより、これくらいの知性を持った肉食系男子の方がグッときちゃうわ!!


     レオポルディーヌの死はユゴーの心に大きな穴を開けました。
     ユゴーは43歳のとき、画家のオーギュスト・ビヤールの妻レオニー・ビヤールと姦通している現場を警察に押さえられてしまいます。

     あ、ゴメン。やっぱ前言撤回するわ。

     愛人までいるのにこの絶倫っぷり、

     肉食系っていうかただの野獣じゃねぇか!!


     ユゴーは貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されましたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容されてしまいました。


    ウーなんとなく
    ◀【女の怒り

    サーオレは無実だろ!?

     その翌年。3月19日、貴族院でユゴーの政治演説(ポーランドのための)。
     さらにその翌年は『レ・ミゼール』を1年中執筆します。

     愛娘を亡くした1843年から1852年の10年間、ユゴーは作品を1冊も出版しなくなっていきます。
     レオポルディーヌの死の影響、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもありましたが、その大きな理由の核心部分は『レ・ミゼール』の執筆に費やす時間のためだと言われています。


     つまり、ユゴーの40代は『レ・ミゼラブル』の制作に捧げられた10年間だったと言えるんだね。
     青春を捧げるかのごとく、作家にとっての円熟期をこの作品にかけたユゴー。それがのちにフランス文学史上屈指の名作といわれる作品になるのかと思うと胸が熱くなるぜ!




     ところでさ、作家としてのユゴーはレミゼによって万々歳になるわけだけど、政治家としてのユゴーはどんな感じだったの?



    サー:そこはほら、天は二物も三物も与えずってやつさ。

    ウー:。。。というと、政治家としてはイマイチぱっとしなかったってこと?

    サー:うん。なんか弁舌の立たない凡庸な国民議会の議員だったらしいよ。それだけだったらまだよかったんだけど、40代の間にナポレオン3世を敵に回すような大げんかをしちゃって亡命することになるんだ。

     この国民的オレさま大詩人。

    ウー:ぼ、ぼーめー!?
    (亡命:政治的弾圧や思想の相違、宗教•人種的な理由による迫害を避けるために自国から外国へ逃れること)


     1849年5月。ラ・トゥール・ドーヴェルニュ通りへ引っ越したユゴーは立法議会のパリ選出議員となります。貧困についてのユゴーの演説議会でスキャンダルを起こし、その後に穏健派とたもとをわかつことになりました。

     そして1951年、ユゴー49歳のとき。
     ルイ・ボナパルトの野心を攻撃する議会演説のあと、息子シャルルがコンシエルジュリー監獄に入れられることになります。4ヶ月後には息子フランソワ・ヴィクトールも同じく収監されることに。12月にクーデターのレジスタンス。
     そして12月9日、ユゴーと71人の人民の代表に国外追放令が出され、その2日後の夜、ユゴーは労働者に身をやつしながらブリュッセルへと脱出することになりました。



    ウー:ちょ、ちょっと待った!なにこの超展開。なんでこんなことになっちゃったのよ!!

    サー:娘は死に、文学の流行も変わり、時代は大きなうねりの中にあったということだよ。

     ユゴーはその激動の中心にいた人物だった。

     最初はルイ・ナポレオンを支持していたんだけどあとで反対の立場をとり、自分の家族にも政治的な圧力が直接かかるようになってきた。クーデターを皮切りに本格的に身の危険が迫ったユゴーは亡命せざるを得ない状況になったんだ


     ようするに、ユゴーは人道的・民主主義的立場から政治に参加していたんだけど、大統領選挙の際にはそんな感じの発言をしていたから応援していたルイ・ナポレオンが独裁への野望を露骨に示すようになってくると、ユゴーは逆に烈しい批判を展開するようになったからこんなことになったんだ。


     なにそれ!超カッコいいじゃない!!

     さっきの前言撤回の発言を前言撤回させてもらうわ。

     ユゴー、あなたこそが正義の肉食系詩人よ!!


     その後1852年にジャージー島、
     1855年にガンジー島へと移り住み、
     ユゴーは1870年までの19年間に及ぶ亡命生活を送ることになりました。



    ウー:うぅ、、、息子と引き離され、母国からも敵扱いをされて、危険の中で島々を渡り歩く逃亡生活。こんなのってひどいじゃないの。。。

    サー:ところがどっこい、そのつらさをバネにするのが大詩人たる由縁。こっからが注目だよ。


     逃亡生活の中においてもユゴーの文学的情熱が揺らぐことはなく、先制者と堕したルイ・ナポレオンを告発する詩集『懲罰詩集』、愛娘レオポルディーヌの死をきっかけに自身の生と人類の井奥をたどり存在の意義について考察する『静観詩集』、進歩へ向かう人類の歩みを描いた壮大な叙事詩『諸世紀の伝説』などの詩の大作を書きました。



    観客Yeahhhhhhhh!!

    サー:さっきウーノが言った言葉、そのままお返しするよ。

    ウー:そうだったわね。この不屈の精神こそが偉大な人間たる証拠。まるで悪のボスに負けて傷を負った正義のヒーローがしばらく修行して逆襲する映画のような展開じゃないの!

    サー冷たい個人主義リアリズム vs 暖かい民主ロマン主義ってか。果たしてユゴーは生きて母国に帰れるのか?乞うご期待。

  •  1859年、ユゴー57歳。
     8月16日にナポレオン3世が発した共和主義者追放解除令に対し、

    「自由が立ちかえるとき、
     わたしは帰るであろう」


     と言い残し――

     ――ユゴー帰国拒否!

     それから2年後、ベルギー旅行最中、
    「6月30日、ワテルロー戦場跡で、ワテルローの月に、『レ・ミゼラブル』を書き終えた」と手帳のメモに記すことになります。


    観客ヒャッハーーー!!

    ウー:最初はいけ好かないエロオヤジとしか思えなかったんだけど、なんだか知るたびにカッコ良くて感動的なじじいになっていくわね。この男の中の男。

    サー:亡命生活中もユゴーは愛人のジュリエットと一緒に過ごしてその愛をさらに強く深くしていく。法律上では正式な妻がいるユゴーだけど、この愛情は本物だよ。ジュリエットがいなかったら間違いなくレ・ミゼラブルは完成していなかったと思う。

    ウー:もうこの際だから今回だけは特別に愛人も許しちゃう。それにしてもレミゼの完成シーンもドラマチックよねぇ〜。

     そして1870年、ユゴー68歳。
     対プロシャ戦争の成り行きから帝国の没落を予見して、ブリュッセルにおもむき、フランスに帰る時期を待つことになります。
     共和国宣言の翌日、9月5日、午後9時35分にユゴーは英雄として国民に迎えられフランスに帰還します




    観客Bravoooooo!!

    双子ブラヴォー!!

    双子観客パチパチパチパチ!!

    ウー:。。。よかった!ユゴーは無事に帰ることができたのね!!

    サー:フランス人の観客も総立ちで喜んでる。そう、ユゴーは存命中に無事フランスに帰ることができた。しかも帰国の直後に『懲罰詩集』を定本公刊するあたりがすごく粋だね。権力と闘る気マンマンじゃないか。

    ウー:さすがはわたしたちの国民的オレさま大詩人、ヒーロー・ユゴー!

    サー:だけど戦争でナポレオン3世が降伏したからといって、ユゴーはタダで国内に帰れるわけにはいかなかった。ここから激動の時代の中で波乱に巻き込まれることになるんだよ。

     翌年の1871年には国民議会パリ選出議員に当選(翌月3月8日、ボルドーの議会で辞職)。辞職の10日後に息子シャルルがボルドーで急死。3月21日、コミューンの乱をブリュッセルに避け、6月1日にはコミューンの追放者をかくまったかどでベルギーから追放されることになります。
     しばらく各地を転々としたユゴーはその後、9月25日にパリに帰ります。

     1872年には次女アデールが発狂のままカナダから送りかえされ(島の生活に息詰まり、外国の愛人に走って裏切られた末)、精神病院へ入れられ(1915年没)、さらにその翌年には息子フランソワ・ヴィクトールを失います。


     ユゴーはこの波乱に富んだ時代の中で、自分の大切な子供たちを自分より先に次々と失っていった。まるで老体に鞭を打たれるかのように。

     その悲しみに比例するかのように次々と詩集を刊行し続けた。とんでもないほど精力的な人だということがわかる。そして何より肉体的にも精神的にも極めてタフだ(エロさも含む)。


     71歳になってもジュリエットの小間使のブランシェを情婦にしたりするんだけど、もはやここまでブレない生き方を貫かれるとむしろ清々しいわねこのエロじじい


     あぁ。
     実にうらやまs、、
     じゃなくて尊敬すべき生きるエネルギーだ!


     それからユゴーは80歳を過ぎるまで精力的に詩を書き続けました。

     すでに妻は死に、続いて二人の息子を失い、孫さえもユゴーを残して死んでいった末、1883年の5月11日、ジュリエット・ドルーエ死去。

    「私の死は身辺の孤独にはじまる」と言った言葉の通り、その2年後にユゴーは肺充血により5月22日、金曜日、午後1時27分に息を引き取りました。

     臨終の言葉は、
    「光が見える、まっ黒な光が」


     5月31日、午前5時30分、ユゴーの棺は凱旋門の下に置かれることになり、翌日の6月1日、国葬が行われ柩は凱旋門からパンテオンに移されることになりました。




    双子パチパチパチパチ!

    観客パチパチパチパチ!

    サー:まさしく「巨星堕つ」な最期だった。

    ウー:国葬まで行われるなんてまさしく国民にとっての英雄であり、フランス国民の心の象徴だったのね。

    サー:死ぬまでエロじじいだったところとかもフランス人らしいといやらしいし、オレさま主義なところも実にフランス人らしいや!


    【アナウンス】
     ピンポーン。

     これより、10分間の休憩とさせていただきます。
     休憩中、飲食はご自由にお取りください。
     それではユゴーの話題で盛り上がっていてください。


     国民的詩人と言われる理由がよくわかる人生だったわ。彼は詩人としての思想と政治家としての行動を武器に、一貫した主義主張を持ち続けて民衆を苦しめる権力と闘い続けた男だった


     正義の肉食系国民的チョイ悪エロ詩人
     それがヴィクトル・ユゴーってことでよろしいでしょうか?



    ウー:えっ、アタシそんなこと一言も言ってないわよ?

    サー:、、えっ?

    観客ザワザワザワザワザワザワザワザワ(殺気


    ウー:や、ヤバいわ。ちょっとユゴーをエロじじい扱いしすぎたせいで観客を敵に回しちゃったようね。ちょ、ちょっと外の空気を吸いがてら亡命してくる!(バサバサッ

    観客ドドドドドド(暴徒の怒り

    サー、、レ、、、



    サー、、ミゼラブル!
      (※あぁ、無情。






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